اصلی ACORN vol.3 厄介な連中15: 春霞たなびく墓地のメッセンジャー

ACORN vol.3 厄介な連中15: 春霞たなびく墓地のメッセンジャー

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کال:
2018
ژبه:
japanese
ISBN:
B078YV2QHC
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ACORN vol.5  New York 2010: 硝子の街にて 番外編

کال:
2018
ژبه:
japanese
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Character

   Prologue

    1

    2

    3

    4

   Epilogue

あとがき





厄介な連中 15



春霞たなびく墓地の

  メッセンジャー





柏枝真郷





Character




遠野遼一郎……………作家



宮城篤史………………遼一郎のイラストレーター兼愛人



遠野美雪………………遼一郎の息子



毛利直樹………………愛読者



曽我部綱彦……………警視庁捜査一課 警部補



高野……………………警視庁捜査一課 警部



ドイル・アーデン……旅行者



遠野敬一郎……………遼一郎の伯父(故人)



和泉貴久………………敬一郎の友人(故人)



和泉雪乃………………貴久の娘、美雪の母(故人)





   Prologue





 三月も中旬に入ったのに雪がちらついたその日、成田空港第一ターミナル一階、中央口のドアを制服警官が七名ほど集団で通り抜けようとしていた。大事件か、あるいは海外から要人の来日でもあるのかと、想像を逞しくする者もいたかもしれない。

 しかし、制服警官たちには緊張の色がまったくなかった。海外派遣を思わせる出で立ちでもない。集団の先頭に立っているのは、オリーブ色のスーツに、やや濃いめのオリーブ色のトレンチコートを重ねたオリーブ尽くめの男だ。

 年の頃は三十過ぎ。背が高く、顔立ちも整ったハンサムだが、金縁眼鏡に金色の鎖を垂らした気障の極みの姿は、私服刑事というより、金持ちのボンボンが私設ボディガード集団を従えて闊歩しているかにも見える。

 五時半を過ぎて日没が近づき、夕陽が茜色に染める一階の通路は、到着ロビーから税関検査を終えて出てくる人と、出迎えの人々でごった返していた。スーツケースや土産の箱を積んだ重いカートが、人と人との隙間を縫うように行き交い、ときにはぶつかっている。

「ファーストクラスで到着しても苦行を強いられるのは同じか。だから僕は自家用機しか使いたくないんだ」

 大袈裟に肩をすくめた男は、金縁眼鏡を税関の出口へ向けながら背後の警官たちに声をかけた。「顔立ちは憶えているな?」

「はい。曽そ 我が 部べ 警部補」

 警官たちが一斉に答える声は、まるで合唱のように息が合っている。曽我部綱つな 彦ひこ は満足げにうなずき、税関から出てくる人々をさりげなく見守った。午後四時半の予定時刻に到着したはずだから、入国審査その他を経て出てくるのは、五時過ぎになるだろうか。旅客機から降りる順番が最後になるエコノミークラスの最後部なら混雑具合よっては七時過ぎになるかもしれないが、ニューヨーク市警の警部クラスがエコノミークラスを利用するはずはないだろう。たとえ、ニューヨーク市警の警官たちが薄給だとしても。

 綱彦は税関の出口を見守り続けた。第一ターミナルを利用しているのは外国の航空会社なのだが、カートを押して出てくる客は日本人ばかりに見える。おまけにファーストクラス御用達とは思えないような、軽装の若者たちばかりだ。

「今の学生は卒業旅行を兼ねて初の海外旅行をするケースが多いんだってさ」

「贅沢だなあ。俺なんか今年の正月にやっと家族旅行でハワイに行ったのが最初なのに」

 近くに立っている警官たちが小声で話す声が聞こえてくる。日本屈指の財閥系大企業、曽我部グループを率いる曽我部家の御曹司として生まれ、幼少の頃から海外旅行も国内旅行もさほどの違いでしかないが、庶民の感覚はそれなりに理解しているつもりだ。

 庶民も気軽に海外旅行できるようになったのはいいが、学生が卒業旅行でファーストクラスを利用するはずもないだろう。おそらく先に到着した他の旅客機でエコノミークラスに乗っていた客たちか。

 それとも荷物がターンテーブルに出てくる順番が遅れているのか。日本人と外国人では入国審査も違うから、手間取っているのか。

(黒髪の西洋人か……見分けにくいな)

 綱彦が写真を思い出しつつ、日本人の若者のほうが茶髪が多そうだと内心で苦笑していると、今まさに、その写真の顔立ちの男が出口から現れるところだった。

 わずかに白髪が入ったストレートの黒髪。彫りが深く、くっきりと鼻筋が通った顔立ちで、日本人と同じ焦げ茶色の瞳であっても、紛れもなく西洋人のものだ。背も高く、頭身も高いから、頭が小さく見える。

 黒のスーツにカーキ色のトレンチコート。あのコートはアクアスキュータムに違いない。両手でスーツケースを載せたカートを押し、一番上に載せた読みかけの新聞にときおり視線を投げている。英字新聞だが、ニューヨーク・タイムズだろうか。

「失礼、アーデン警部ですか」

 部下の一人も気づいたらしく、さっそく駆け寄って英語で声を掛けている。曽我部も続いて駆け寄ろうとしたが、

「コミックを日本語で言; うと?」

 男の口から聞こえた英語は不思議なものだった。

「……は?」

 部下も戸惑ったように硬直している。

「マンガだな」

 ふいに横から声が聞こえた。そこに立っていたのは、もう一人の男

「遠とお 野の !」

 綱彦の口から驚きの声が漏れた。見間違うはずがない。日本人離れした長身に、東欧の吸血鬼伝説を彷彿とさせる容貌の男は、宿敵、遠野遼一郎りよういちろう ではないか。しかも、いつもは毛玉ができたセーターにジーンズという軽装なのに、珍しくスーツ姿だ。

 しかし、アーデン警部は遠野の姿に驚く様子もなく、

「綴りは?」

「MANGA」

「なるほど……ここが『G』か。では、ミルキー・ウエイは? 『G』で始まる五文字の単語なんだが」

「銀河   GINGA」

 アーデンと遠野は、なぜか英語で意味不明の会話を交わしながら、通路を歩き出している。

「警部補、どうしましょう?」

 部下たちの声も耳に入らず、綱彦は呆然と見送っていた。





     1





 東京都下   武蔵野台地のほぼ中央に広がる霊園にも雪が降っていた。西に外れているため二十三区内より気温が三度は低いといわれるとおり、黒い御影石の墓石や卒塔婆も、濃い緑の針葉樹も白く染まるほどに積もっている。

 都が計画的に造成した公園墓地でもあり、桜の季節には墓石のそばにシートを敷いて花見の宴会を開く者もいるほどだが、まだ蕾も見えぬ枯れ木のような剥き出しの枝も白い花が咲いたかのようだ。霊園内を南北に突っ切るバス通りも、うっすらと残る轍わだち を降り積もる雪が掻き消し、街灯の列が闇に白く浮かび上がっている。

 霊園には門が数箇所あり、北側の門の手前にあるバス停前の小道を、今、一台のスクーターが走っているところだった。後部の荷台にはNTTのロゴが見える。

 雪で濡れたヘルメットに覆われた顔が青ざめ、こころなしか震えているのは、寒さのせいだけではないかもしれない。街灯もまばらな雪道に響くのはスクーターのエンジン音のみ。人の足跡も人影も途絶えた雪道は、今にも霊園から雪女が出てきそうな不気味さが冷気とともに漂っている。

「……あと少しだ」

 NTTの職員は白い息とともに独り言をつぶやく。ちなみに電話の工事に行くのではない。電報の配達員なのだ。

 二十一世紀まで残りわずか、コードレス電話やFAX、ポケベルも普及し、最近は携帯電話も見かけるようになった今、弔電か祝電などの特定の用途でしか使わないはずだが、なぜか毎月のようにこの小道を配達に走っている。ただし、弔電ではない。霊園に葬儀場はないが、届け先も霊園ではないのだ。

 滑らないよう注意してスクーターが進むと、突如として大正時代にタイムスリップしてしまったかのような石造りの洋館が出現する。実際に建築されたのも大正時代で、築八十年を超えた現在は幽霊屋敷と錯覚しそうなほど荒廃して見えるはずだが、今夜は雪化粧が老朽化を隠している。

 しかし、それがなおさら配達員の恐怖を増幅させるのだ。雪女と幽霊が手を繋いで出現しそうではないか。建物の一階に灯りらしきものが見えるのさえ、人魂ではないかと疑ってしまいそうだ。

 屋敷を囲む老樹は一度も花をつけたことがないのだが、やはり桜だと噂で聞いたことがある。配達員は意を決して真鍮製の門の横でブレーキを踏み、スクーターから降りた。郵便であればポストに投函すればいいだけなのに、電報は手渡しが原則なのだ。

 荷台のバッグから電報を取り出し、雪道を進む。積雪はせいぜい二センチ程度でも、街灯の届かぬ玄関まではただ暗く、懐中電灯が必要だ。なんとか辿りつき、呼び鈴を鳴らす。

「遠野さーん、電報でーす」

 精一杯の大声で怒鳴った自分の声さえも不気味だ。早く返事してくれ。

「はーい」

 意外にも明るい声が返ってきた。少年の声に聞こえる。小走りで廊下を走る音が近づき、重い玄関ドアが開いた。「どうもご苦労さまです」

 電球の黄色い光の下、にこにこ笑顔で立っていたのは、やはり少年だった。高校生くらいだろうか。眼がこぼれ落ちそうなほどに大きく、無垢で天真爛漫な少年そのものに見える。これまで何度もこの屋敷に配達に来たが、初めて見る顔だ。

「……ええと、遠野さんですね?」

「はい」

 はきはきと少年が答えた。「電報の差出人の遠野美雪よしゆき です」

「……は?」

 配達員は耳を疑ったが、一秒でも早く立ち去るのが得策だと生存本能が告げている。「では、ここに受領印をお願いします」

「はい、これでいいですか?」

「ええ。では、確かにお渡ししました」

 受領書をひったくるように受け取り、配達員は回れ右をして一目散に駆け出す。懐中電灯をつけるのさえ忘れていたが、自分の足跡を頼りにひたすら走ってスクーターに飛び乗ってエンジンを掛けたあとは、屋敷を振り向かず、ひたすら走り続けた。

「とにかく任務完了だ」

 任務とは大袈裟だが、独りごちる配達員にとっては今日最大の難関を突破したようなものだった。あと何軒か配達が残っているが、ここに較べれば天国だ。ふたたび霊園の横を通り過ぎたが、今の配達員にとっては昼間の公園のようなものかもしれない。

 一方、その屋敷では、振り子式箱時計グランドファーザーズクロツク が午後七時を告げる重厚な鐘の音が響いたところだった。もしも配達員が聴いたら心臓が止まりそうなほど不気味な音色でしかないが、

「やっぱり雪のせいで配達が遅れたのかなあ」

 美雪少年は平然と手にした電報を振りながら、玄関ドアを閉めた。玄関ホールは広く、屋根裏部屋までの吹き抜けとなっているが、ぶらさがっているのは裸電球がひとつだけだ。

 天窓は割れ、とけた雪が雨漏りとなって滴り落ちている。床に置かれた洗面器がリズミカルな音をたてるのもかまわず、廊下を駆け戻った少年が、廊下の手前のドアを開ける。

 灯りが広々とした部屋を照らしだした。中庭に面し、表から唯一灯りがついて見えたのが、この居間なのだ。クラシックな洋館に相応しく、居間も「アンティーク」と表現できそうな家具が並び、だるまストーブに載った薬缶が湯気を立てているが、猫足のテーブルには現代的なコードレス電話機が置かれ、ちゃぶ台のように床に座った青年が、鉛筆を握って紙に絵を描いている。

 憂い顔が似合う容貌は「美青年」と言っていいだろう。本人も「かつての美少年」を自認していたくらいだ。しかしそれが「ただの人」になるリミット、三十歳を三月三日に超えてしまった。

 名前は宮みや 城ぎ 篤あつ 史し 、この洋館の居候であり、一応はイラストレーターでもある。確定申告が必要な最低の収入はあるが、とても生計を立てられるような金額ではない。しかも、特定の作家のイラストだけを半ば強制的に描かされているのだ。

 その作家こそが、この洋館の主、遠野遼一郎なのだが

 詳しい説明は後に譲るとして、とりあえず容貌はドラキュラ伯爵を彷彿とさせ、頭脳明晰さは悪魔のごとき男とだけ説明しておこう。性格は両者を超える変態サド、歳は四十一歳である。

「電報のほうが差出人より後に届くなんて、珍しいよね」

 電報を手に入ってきた美雪は、その遼一郎の息子だ。とある理由で遼一郎の両親、すなわち祖父母に育てられ、現在も阿佐ヶ谷の家で暮らしている。遼一郎は両親に勘当されたが、叔父からこの屋敷を遺産として譲り受けたらしい。

 かくして父子は別々に生活し、美雪は休みのたびに遊びに来るのだが、なぜか事前に「アスゴゴツク」の電報を打つ習慣があるのだ。今日の朝に到着する場合でも「アスゴゴツク」   遼一郎いわく「美雪は様式美が好きだから」だそうだが……。

「深く考えないほうがいいよ」

 篤史は独り言のようにつぶやき、鉛筆を握りなおした。そう、この屋敷では何事も深く複雑に考えてはいけないのだ。浅く単純に考えたほうが精神安定のためにもいい。

「そうだね」

 美雪があっさりうなずき、ソファに歩み寄っている。色褪せた布張りのソファには、鮮やかなピンク色の縫いぐるみが鎮座している。巨大なテディ・ベアで、身にまとっているのは、高級ブランド品らしき服だが   いや、深く考えてはいけない。とにかく美雪はテディ・ベアを抱き上げて頬ずりしている。「ハロルド、こんな雪の日に父さんはどこに行ったのかな」

 ハロルドとは、テディ・ベアの名前だ。これも深く考えてはいけない。もちろん、縫いぐるみが返事するわけもない。

 篤史はひたすら鉛筆を動かした。ケント紙に添えた左手の手首には、なぜか白い包帯が巻かれている。描かれつつあるイラストも、血やら内蔵やらが飛び散った文字通りスプラッタなのだが   しつこいようだが、深く考えてはいけない。

「お腹が減ったのなら、先に晩ご飯を食べてて」

 それでも沈黙が気詰まりで、篤史がつぶやくと、

「厭だよ。せっかく、ばーちゃんがお弁当を作ってくれたんだから」

 美雪が頬をふくらませて、テディ・ベアを抱きしめた。「父さん、今日から春休みなのはわかってるはずなのになあ」

「……たぶんね」

「出かけたのは何時頃?」

「……雪が降り出す前」

「ってことは三時過ぎ? 僕がJRでこっちに向かってる途中で降り出したから」

「……たぶん」

「車で出かけたわけ?」

「……たぶん」

「帰るのは何時頃?」

「……俺は聞いてないから」

 篤史は曖昧に答えつつも、胸の内で遼一郎への悪態をついていた。

(あの変態サド……。美雪への返答の仕方も教えてくれないなんて)

 八つ当たりなのはわかってはいる。だが、悪魔よりも悪知恵に長けていそうな遼一郎なら、美雪の質問攻めは予測できたはずではないか。しかも、急用で時間がなかったわけではなく、今日の外出は数日前から予定していたはずなのだ。

 はずだ   というのは遼一郎の口から直に聞いたわけではないから篤史の推測に過ぎない。しかし、数日前に英語での電話を受けたのは、篤史本人だ。

 篤史は眼の前のコードレス電話を見つめた。あの電話がかかってきたのは、夜の十一時頃だったろうか。親機と子機合計六台が一斉に奏でる大騒音を止めるべく、子機を取った篤史の耳に聞こえてきたのは、男の声だった。

「Hello」

 これは辛うじて聞き取れた。その後の英語はさっぱりわからなかったが、「遼一郎」だけは聞き取れたのだ。まるで日本人のような自然な発音だったからかもしれない。

 とにかく篤史は、間違い電話ではないと思った。この男が遼一郎と話をしたがっているとだけは理解できた。遼一郎に外国人の知り合いの一人や二人いても不思議はない。若い頃に医学部を中退して渡米し、ニューヨークで暮らしていたそうだし、昨年にはニューヨークからエアメールが届いたことがあったからだ。

「あーえーと」

 篤史は必死で答えようとした。「プ……プリーズ、ウエイト」

 こんな英語しか口に出てこないなんて情けないが、ここは日本だ。ひたすら「ウエイト」を繰り返しながら子機を握って廊下に飛び出し、書斎のドアをノックしたのだった。

 この屋敷で唯一、電話の親機も子機もない部屋   それが遼一郎の書斎だ。もとは布団部屋だったそうで、窓もない狭い部屋だが、世俗を忘れて執筆に没頭するには最適な空間なのかもしれない。いや、だからこそ執筆を邪魔しようものなら、後が怖いし、その晩は締め切り間際だったから、絶対にしてはいけない禁止行為だったのだが

「遼一郎! 英語の電話なんだよ」

 篤史は左手に子機を握りしめ、右手でドアをノックした。すぐにドアが開き、瞬殺されそうなほど鋭いサド眼に睨まれたが、遼一郎は無言で子機を受け取り、ふたたびドアを閉めたのだった。

 その後、遼一郎がその男とどんな会話を交わしたのかは知らない。締め切りも二日貫徹で無事に乗り越え、今度はその締め切りの重圧が、イラストを描く篤史を襲ったから、すぐに忘れてしまったのだが

 今日の午後、外出した遼一郎は、スーツ姿だったのだ。いつもは毛玉のついたセーターに、洗い晒したB級品のリーバイスという、マイナーで貧乏な   かつ家に引きこもりがちな作家らしい実用一点張りの恰好で、スーツなどはめったに着ない。「強引にマイウエイ」なほどの傲岸不遜さゆえ、他人の眼などまったく頓着しないのだが、例外として、遼一郎の基準で必要だと判断した場合のみ、背広ネクタイを着用するらしい。

 とはいえ、篤史の知る限りでは、せいぜい年に一、二度だ。めったにないことをしたせいで、季節外れの雪が降ったのではないかとさえ思えてくる。

「寒いから、お味噌汁でも作ろうかな」

 テラス窓から降り続く雪を眺めていた美雪が振り返った。「ばーちゃんから作り方は習ってるし、材料も味噌さえあれば、具は冷蔵庫にあるものを適当に組み合わせればいいだけだしさ」

「……直伝の味噌汁か」

 篤史はペンを止めた。美雪が味噌汁作りに没頭してくれれば、遼一郎の話題からも逃げられそうだ。「自信ある?」

「大丈夫だよ。任せておいて」

 大袈裟に胸を叩く美雪の笑顔は、あどけない。とても十七歳には見えないし、あの変態サド、遼一郎の息子にも見えない。容姿が違うのは母親譲りのせいで、性格も祖父母に育てられたからだ   と、篤史も思い込んでいたのだが   ……。

 戸籍上は実子であっても、実の子ではないのだ。美雪が生まれたのは地球の裏側、ニューヨークだ。当時、遼一郎はまだ二十四歳、卒業間近の医学部を中退し、「留学」という名目で渡米したらしい。

 なぜ、そんな行動に出たのか   この屋敷の元の持ち主であり、かつ遼一郎の伯父である遠野敬一郎が亡くなったのがきっかけだったらしいのだが

 ひと言では説明できない複雑な事情の末、遼一郎はニューヨークで暮らし、そこで出会った和泉いずみ 雪ゆき 乃の という女が命懸けで産んだ赤ん坊が美雪だったのだ。命懸けで   そう、大袈裟な表現ではなく、文字どおり命懸けだった。

 彼女は、胎児の父親の妻に刺されて亡くなったからだ。刺されながらも咄嗟にお腹をかばった。医者は胎児を救うことはできたが、彼女の命を救うことはできなかった。

 そして、遼一郎は生まれた赤ん坊に美雪と名付け、実の父親として出生届を出した   これが真実だ。しかし美雪はそれを知らない。知っているのはニューヨークで生まれたことと、母親が亡くなったことだけだ。未だに遼一郎を実の父親だと信じ切っている。

 篤史も昨年の暮れまではまったく知らなかった。知ってしまった今となっては、「知らぬが仏」だったと後悔するしかない。どうか美雪への態度が変わっていませんようにと心の中で念じつつ接するだけだ。

「具は何がいいかな。ばーちゃんなら、お豆腐と滑なめ 子こ が定番だけど。あれ、冷めてから温め直しても美味しいんだよね」

「……どっちも冷蔵庫に入ってた記憶が」

「本当?」

「今朝、冷蔵庫を開けたときの記憶だから、確かなはず」

 珍しいと思ったのだ。食料品の買い出しは主に遼一郎が担当だが、ふだんは二人暮らしなので冷蔵庫の半分は空いているようなものだ。美雪が泊まりにくる週末や夏休みでも、さほど変わらない。それなのに今朝は冷蔵庫がほぼ満杯だった。投げ売りセールでもしていたのかと幾つか取り出してみてみたが、「50%オフ」とかいったラベルがついているものはなかった。

 食材も毎日のようにお目にかかる野菜やキノコ類、手頃な魚介類や肉ばかりで、特別な高級牛肉などはなかった。ただ分量と種類が通常の倍あるだけに思えた。あの遼一郎が間違えるはずがないから、しばらく買い物に行けないほど仕事の予定が詰まっているのか、あるいは来客の予定でもあるのかと考えただけだったが

(もしかして   )

 その客を迎えに行ってるのだろうか?

 篤史はそれ以上は考えないことにした。この種の分析や推理は遼一郎の十八番おはこ だが、篤史がやったらただの憶測だ。

「じゃ、作ってくるね」

 美雪が純真な笑顔を残して居間を出ていく。ドアが閉まってから、篤史は深呼吸をしながら鉛筆を握り直した。血まみれスプラッタなイラストを描くのと、美雪の相手をするのと、どちらが楽だろう?

 スプラッタのほうがマシかもしれない。架空の登場人物で現実には無縁だと割り切ってしまえばいいのだ。

 好きでイラストレーターになったわけではなく、厭々やってきた仕事が現実逃避になる日が来るとは予想外だ。それでも篤史はイラストに集中する決意を固めたのだが

 豆腐よりも弱い決意をあっさりと粉砕したのは、電話のベルだった。

 もしかしたら遼一郎かと受話器を取った篤史の耳に聞こえたのは、

「篤史か? 僕だ」

 曽我部綱彦の声だった。





     2




 遼一郎が帰宅したのは、夕方六時頃だった。雪のせいで昼間から暗かったが、霊園の墓石に積もった雪の白さがくっきりと街灯に浮かびあがり、ますます不気味に見える頃、おんぼろブルーバードのテールライトが、テラス窓のカーテンを照らし出した。

「父さんだ」

 真っ先に気づいた美雪が玄関へと走り出す。篤史は大きく深呼吸をしてから、立ち上がった。

 来客が誰なのか、綱彦からの電話で名前や簡単な肩書きは聞いていたが、いまいち事情がわからない。そもそもニューヨーク市警の警部がなぜ日本に来たのかも謎だ。

 どんな人物なのか   篤史はテラス窓に近寄ってカーテンの隙間から外をのぞいてみた。土蔵のような車庫の前で停車したブルーバードの助手席には、人影が見える。運転席側のドアが開くと、自動的に点いた車内灯で男だとわかった。黒髪だから日本人なのか外国人なのかは不明だ。

 先に遼一郎が降り、助手席の男が降りる。背が高い。遼一郎も高いが並ぶくらいか   と思っていると、美雪が駆け寄るのが見えた。遼一郎が紹介したらしく、美雪が右手を差し出して、客と握手をしている。握手   お辞儀でなく握手なのは、やはり外国人だからか。

 三人並んで玄関へと歩き始めた。いよいよだ   篤史の心臓が高鳴った。ただの居候に過ぎないから挨拶するだけなのに緊張で足が竦む。日本語はわかるのだろうか?

 やがて、玄関ドアが開く不気味な音とともに、遼一郎の声が聞こえた。

 英語だ。困った。何を言ってるのかさっぱりわからない。返事する男の声も英語だし、美雪の声も英語だ。意味不明ながら発音はジャパニーズ・イングリッシュではない流暢さがあるように聞こえる。

(……要するに通訳は遼一郎と美雪に頼めばいいわけだな)

 珍しく楽観的に考えることにして、篤史は急いでテーブルの前に戻った。座り込んで鉛筆を握って数秒後に居間のドアが開き、まず遼一郎が入ってきた。

「客だ。名前はドイル・アーデン」

 それだけ告げると、振り向いて英語で説明している。辛うじて「宮城篤史」という名前だけは聞き取れた。

 そして遼一郎の陰から男が現れたのだが   眼と眼が合った瞬間、篤史の背筋が冷たくなった。まるで射殺されそうな鋭さだったのだ。

 遼一郎の視線の鋭さと匹敵しそうだ。眼は焦げ茶色、わずかに白髪が入った髪も黒

「……そうか、ブルネットって微妙に色が違うんだ」

 思わずつぶやいてしまってから慌てて口を押さえたが、ドイル・アーデンとかいう警部は、すかさず遼一郎に尋ねている。遼一郎が答えると、ドイルは納得したようにうなずいたが、篤史にはさっぱり意味がわからない。

 もっと真面目に英語を勉強しておけば良かった   と後悔しても手遅れだ。とにかく同じ黒髪でも日本人とは微妙に色が違うし、眼の色も似たような焦げ茶色なのだが、眼の形そのものが   いや、顔の骨格そのものが違うのだ。

 額から鼻筋にかけても、ただ彫りが深いだけでなく、ラインが違う。人種の違いによる差は、肌や髪、眼の色だけでなく、造形そのものに影響しそうだ   と思っていると、ふいに遼一郎が切れ長の眼を向けた。

「イラストを見せて欲しいそうだ」

「……イラストって……」

 このイラストだろうか。限りなくスプラッタに近い遺体のイラスト   描いている篤史自身も仕事でなければ見たいとは思わないのだが、

「そうか。日本語が読めなくても、イラストを見れば作品のイメージがわかるよね」

 美雪が納得したようにうなずいている。「犯罪現場ばかりだけど、ひと味違うんだよ」

 犯罪現場というより遺体そのものなのだが   篤史が戸惑っている間にドイルが黙ってテーブルに歩み寄ってきた。横に積んである数枚を手に取り、イラストに視線を向ける。表情は変わらないが、目つきがふたたび鋭くなったように思えた。

 まるで警察官が現実の遺体を観察しているようだ。アメリカの警官というと、巨体に見えるほどの大柄で、見るからに頼もしく、いわゆる「マッチョ」タイプの制服姿を想像するが、ドイルは初めから管理職だったかのようなスマートさだ。

 ピンストライプのスーツも、ウォール街あたりのビジネス街を颯爽と闊歩するビジネスマン、といった風情だ。ただし、篤史はニューヨークはおろか海外旅行の経験がないので、映画で観たイメージでしかなく、私服刑事にしても、せいぜい、よれよれのトレンチコートを着たコロンボ警部か、マグナム四四を携える「ダーティ・ハリー」キャラハン警部くらいしか知らないのだが

 と、ドイルが最後のイラストから顔を上げ、視線を篤史へ向けた。

「他には?」

 日本語だ   発音はいまいちだが、日本語で「他には」と聞こえた。

「他は……今描いてるところで」

 篤史は慌てて答えたが、ドイルは訝しげに眉根を寄せ、遼一郎を振り返っている。遼一郎がなにやら英語で答え、さらには美雪が英語で口を挟み、駆け足で居間を出ていった。

(……俺の聞き間違えか……)

 篤史が内心で落胆していると、

「いや、今のは日本語だ」

 遼一郎の声が聞こえた。「日本語で『他には?』と言った。簡単な日本語の挨拶と質問だけは日系人の同僚から教わってきたそうだ」

「……へえ……」

 質問ができても答えの意味がわからなければ、結局は通訳が必要になるではないか   と篤史は思ったが、とりあえず、うなずくことにした。篤史とて、中学校で習う程度の簡単な英語の質問はできるが、答えを聞き取れる自信はまったくない。

 ドイルも無理に日本語を使う気はないのか、遼一郎にイラストを見せながら、あれこれ英語で説明を求めているようだ。遼一郎も英語で答えている。

 二人とも長身なので、そうやって並んで立つ姿だけ見ていると、映画のワンシーンのように見える。西洋人の年齢はいまいちわからないが、遼一郎よりは年上の四十代後半だろうか。目尻に深い皺が刻まれてはいても、白い肌は瑞々しく、顎から頬にかけてラインが引き締まり、老けた感じはない。

 若い頃は眼を惹く美青年だったろうし、今は重ねた人生の深さのような魅力まで加わっているかに思える。

(……どういう関係だろう? 遼一郎と   )

 とどのつまり、篤史にとって最大の関心はそれだった。二人が会話をしている様子は、ごく普通の友人のように見える。やはり遼一郎がニューヨーク留学中に知り合ったのだろうか。

(……でも、元恋人じゃなさそうだな)

 なぜか、そんな気がした。「かつての美少年」だった篤史の経験から来る勘のようなものだろうか。ドイルがゲイか否かまではわからないが、遼一郎の好みとは違うように思える。むしろ、遼一郎の恋敵になりそうなタイプだ。

(……ドイルも変態サドだったりして)

 想像だけが勝手に膨らみ、篤史は思わず吹き出しそうになっていると、美雪が居間に戻ってきた。両腕に雑誌を何冊も抱えている。雑誌名は「月刊・空中楼閣」   超マイナーなミステリー雑誌で、遼一郎の作品の発表先だ。つまり篤史のイラストも掲載されている。

「バックナンバー」

 美雪がドイルに話す英語の中で、その単語だけが聞き取れた。ドイルと美雪はソファに座り、雑誌のページをめくりながら、あれこれ会話を交わしている。

 美雪の英語力は正直驚きだった。生まれたのがニューヨークでも、赤ん坊のときに帰国していたのだから、日本生まれの日本人と条件は同じはずだが、高校の授業だけでなく、どこかで習っているのだろうか。

 ソファの横には、巨大なピンク色のテディ・ベアが鎮座している。ハロルド   それが縫いぐるみの名前であるが、美雪のもう一つの名前   ニューヨークで生まれた際、出生証明書に記載された名前でもある。成人するまでは二重国籍で二つの名前を使えるらしい。

(ニューヨークか……)

 ふいに、篤史の心に一陣の風が吹き抜けたような寒さを感じた。淋しいような……自分だけが仲間はずれにされた疎外感のようなものだろうか。

 英語の会話がさっぱり理解できないだけでなく、もともと篤史は部外者なのだ。美雪が生まれた十七年前、篤史は十四歳だった。文京区の北のはずれにある街で、両親や弟と暮らす平凡な中学生だった。

 絵を描くのが好きで、教室に残って一人で描いていた。お節介な美術教師が美術部入部を勧めたが、断り続けた。小学校から通知表の協調性の欄は常に「×」   一人でいるのが好きなだけなのに、教師には欠点だと判断されたらしい。

 クラスメートにいじめられたりはしなかったが、友人はいなかった。それも篤史にとっては苦ではなかった。むしろ、一人のほうが楽しかったのだ。

 家族とも淡泊な関係だった。当時はまだ何の問題も起こしていなかったから、弟から嫌悪の眼で見られたこともなかった。

 疎外感など覚えなかった。それなのに、今は

(くそ、仕事だ仕事)

 篤史は自分に言い聞かせながら鉛筆を握り直した。来客があろうと締め切りを遅らせてもらえるわけではない。それよりも夕飯の支度はどうするのだろうと、遅ればせながら空腹に気づいていると、

「幽霊?」

 またしてもドイルの日本語が聞こえた。どんな基準で日本語を教わってきたのかと、首を傾げつつも篤史が顔を上げると、ドイルは真顔で窓を見つめている。レースのカーテ越しに見えるのは、暗闇と白く舞う雪   いや、長い黒髪を風に翻した着物姿が浮かび上がっている。

「なんだ、毛利さんだよ」

 あっけらかんと美雪が答えた。





     3




 「遅参いたし、面目ござりません。この毛もう 利り 直なお 樹き 、一生の不覚でございました」

 きちんと折りたたんだ道中着やマントを横に置き、居間の床に頭をこすりつけんばかりに平伏しているのは、縞柄の和服をまとった男だった。床を這う長い黒髪は雪で濡れている。「よもや、雪で中央線が運休になるとは予想もせず、お茶の水駅で待ち続けてしまいました」

「運休を決めたのはJRのお偉方の判断だろう。そいつらの責任まで負う必要はない」

 そっけない遼一郎の返事に、男はやっと顔を上げた。

「さすが遠野センセ。かたじけのうございます」

 歴史の重さを感じさせる武士語と、吹けば飛びそうな軽いノリの現代語がちゃんぽんになっているが、深く考えてはいけない。簡単に説明すれば、毛利は売れない時代劇役者で、実家は浅草橋にある呉服店なのだ。さらに、遼一郎の大ファンであり、いつしか押しかけ「家来」となっている。

「まずは夕飯の支度だ」

 遼一郎の声に、毛利はいそいそと立ち上がって襷たすき を掛けている。

「助太刀いたしますぞ」

 ちなみに衿の合わせからのぞいている木製の筒のようなものは、銃刀法違反で逮捕されるのは必須の匕首あいくち なのだが   いや、深く考えてはいけない。それよりも、手慣れた動作で襷を結んだ毛利は、そこで初めてソファに座ったドイルが眼に入ったらしい。「お客人で……」

 言葉が途切れたのは、日本人ではないと気づいたからだろう。一方、ドイルは興味深そうな眼で観察しつつ、あれこれ美雪から説明を受けていたようだった。

 ソファから立ち上がり、

「ドイル・アーデンだ。はじめまして」

 日本語で挨拶しながら毛利に歩み寄る。

「これはこれは。ご丁寧なご挨拶、痛み入ります。拙者は毛利、遠野センセの家来でございまして」

 毛利は腰を屈め、昔の商人のような揉み手の体勢だ。どうやら呉服屋の息子のスタンスで応対することにしたらしい。「日本語がお上手でいらっしゃいますな」

「日本語は挨拶しかできない。センテンスを丸暗記しただけだ」

 ドイルが毛利の衿の合わせを指さした。「それは何だ?」

「おや、目敏くていらっしゃいますな。これは匕首と申しまして……。刀はおわかりになりますか? それの小型なやつで」

 毛利が匕首を取り出しながら、「刀、スモール」を繰り返す。

「本物?」

「もちろん本物でございますぞ。かの名工、国光の作ではございませんが、毛利家に代々伝わってきた逸品で、切れ味も抜群でございます」

 軽快な弁舌で柄つか を握って鞘から引き抜くと、刃が天井からの光を反射して煌めく。

「……BEAUTIFUL」

 そんなつぶやきがドイルの口から洩れた。視線が、また鋭くなったように見える。

「ビューティホーでござんしょ? お目が高い。ま、武士たるもの、むやみに抜刀するのは心得違いですので、この程度でご容赦を」

 流れるような光の残像だけを残して刃が鞘に収まると、毛利は「では、拙者はこれにてご免」

 軽く会釈をしてから踵を変え、遼一郎に続いて居間を出ていった。その後ろ姿を、ドイルは鋭い視線のまま見送ってから、美雪に英語でなにやら尋ねている。篤史には質問の内容も、美雪の答えもさっぱりわからないが、「サムライ」という単語だけは聞き取れたから、かつて武士が日本にいた時代の話でもしているのだろう。

 篤史はイラスト描きに専念することにした。日本語の会話と違って意味がわからないから、ただのBGMとして聞き流せばいい。夕食の支度が済むまでに、あと一枚は下描きを終わらせたいところだが

(……夕食の後は?)

 またしても、雑念が入ってしまった。ドイルは泊まっていく予定なのだろうか? 客室は二階の二部屋あるが、一部屋は美雪専用だし、もう一部屋は物置同然だ。遼一郎が掃除をした様子はないから、泊まれる状態ではないはずだが

「あの」

 雑念を払拭するには、確認するしかない。篤史は仕方なく、尋ねてみることにした。「今晩はどちらにお泊まりですか?」

「……?」

 ドイルは軽く肩をすくめたが、美雪がすかさず通訳してくれた。

「ホテルを予約済みだって。帝国ホテル」

「……VIP御用達か……。警視庁や警察庁にも近かったっけ」

 ホテルの向かい側に広がる日比谷公園や、それを見下ろすように建つ警視庁のビル、警察庁が入った中央合同庁舎のビルを思い出していると、

「なんで警視庁や警察庁が出てくるわけ?」

「だってニューヨーク市警の警部だろ?」

 美雪の問いに上の空で答えてから、ドイルの鋭い視線に気がついた。

「……警部さんなの?」

 美雪も大きな眼を丸くしてドイルを見上げている。

 ということは

(遼一郎は美雪にドイルの身分は話してなかったのか)

 今さら気がついても手遅れだ。篤史が美雪とドイルの二人の視線に硬直していると、

「おそらく曽我部からの情報だろう」

 遼一郎の声が聞こえた。居間の戸口に立ち、手にはなぜか、玉じゃくしを手にしている。救いの神   いや、有無を言わせぬ鋭い視線が「白状しろ」と命じている。

「……そう。電話で。あんたが出かけている間に」

「何時頃?」

「五時頃かな」

「なるほど」

 あっさりと視線を外した遼一郎が、ドイルに英語で説明している。「曽我部」という名前だけは聞き取れたのだが、なぜかドイルが笑いだした。

 苦笑ではなく、面白いジョークでも耳にしたような笑い方だ。

「遼一郎はなんて言ったんだ?」

 気になって篤史が美雪に通訳を頼むと、

「……空港にいた金縁眼鏡で金鎖の男が警視庁の曽我部警部補だって」

「じゃあ、綱彦の出迎えに気づいてたのか」

 電話でさんざん愚痴を聞かされたのを思い出す。歓迎の意を示そうと部下を引き連れて成田空港まで出向いたのに、目の前で遼一郎にさらわれてしまった   らしい。「でも、なんで笑ってるわけ?」

「……新聞のクロスワード・パズルを父さんと一緒に解いているときに、いたからだって」

 答える美雪はふくれっ面だ。「じゃあ、僕だけか。ドイルがニューヨーク市警の警部だって知らなかったの」

「でも、俺だって、綱彦から電話がなければ知らなかったんだから」

「そっか……。もしかして極秘の来日なのかな」

 美雪が声をひそめた。「日本の警察と極秘での合同捜査とか……。でも、それなら警視庁じゃなく警察庁が窓口だよね。父さんとここに直行したってことは、プライベートの旅行なのかな?」

 いちおうミステリー作家の息子でもあり、美雪は推理好きなのだ。篤史としては、来日目的よりも遼一郎との関係を知りたい。電話で遼一郎への悪口雑言を連ねた綱彦の口ぶりから察するに、そもそも綱彦はドイルが遼一郎と知り合いだと知らなかったようなのだ。空港の到着ロビーに遼一郎が現れたこと自体が、綱彦にとっては晴天の霹靂だったらしい。

「さあ……。綱彦はそこまで話さなかったから」

「そっか……。まあ、あのおじさん、あれでもいちおう警視庁殺人課の警部補だからね。キャリア組なら試験の成績だけ良くても警部補にはなれるけどさ、極秘情報を漏洩したら懲罰ものだよね」

 美雪がもっともらしくうなずく。散々な言いようだが、綱彦にとって最悪の評価は「おじさん」呼ばわりされることかもしれない。

「夕飯だ」

 ふいに遼一郎の声が割り込んだ。振り向くと、すでに遼一郎はドイルとともに廊下へ出ている。

「待ってました! もうお腹ぺこぺこ」

 美雪もスキップするような足取りで戸口へ向かっている。

 かくして   奇妙な夕飯が始まったのだった。

 篤史がこの屋敷に居候してから約三年、奇妙な経験は枚挙にいとまがなく、今や慣れっこになっているのだが、今回は例外なほど奇妙だった。

 まず、食堂での夕食だったのだ。そう「食堂」だ。もちろん飲食店の食堂ではない。ダイニング・ルームのことだが、大正時代に旧華族が建てた洋館ゆえ、華麗なる一族の晩餐にふさわしい立派で巨大な楕円形のテーブルが中央に鎮座する食堂があるのだ。

 ただし、篤史はそこで食事をしたことは一度もない。なにしろ、天井から床まで縦横無尽に張り巡らされた蜘蛛の巣と積もった埃で、まさにホラー映画の幽霊屋敷さながらの惨状になっているのを掃除しなければ使えないのだ。

 ゆえに「開かずの間」状態であり、ふだんの食事は、キッチンにあるテーブルで摂っている。おそらく料理中の作業台として置かれたものだのだろうが、ごく一般的な四人掛けテーブルと大差ないから、美雪や毛利が加わっても充分だった。

 今日はドイルがいるから五人   たしかに椅子も足りないし、狭い。だから食堂を使おう、ということなのだろうが、いつ掃除したのだろう?

 蜘蛛の巣も埃も消えた食堂は、飴色の光沢を放つテーブルにアンティークな燭台が置かれ、蝋燭に炎が灯っている。天井のシャンデリアも電球が灯り、白い漆喰を淡く染めている。

 そればかりではない。猫足の椅子は背もたれに張られたゴブラン織りの布の埃が払われているのはもちろんだが、陽の射さない「開かずの間」だったのが幸いしたのか、居間のソファほど色褪せもせず、黒地に織られた繊細な花模様が見て取れる。西洋風の薔薇ではなく、桜だった。

 テーブルも埃を払い、磨き上げられているから、縁に施された細かな彫刻もよくわかる。これも桜だろうか。

 まさに大正時代にタイムスリップしたかのようだ。楕円の短い部分   要するに偉い人が座る席には、遼一郎、向かい側がドイルの席、長い部分が篤史や美雪、それに毛利の席だった。

 ただし   テーブルに並べられているのはいつもの食器だし、メニューも味噌汁に焼き魚、野菜炒めといった庶民的なものばかりなのだが。ちなみに味噌汁は遼一郎が不在中に作っていた滑子と豆腐を具にしたものだし、美雪の「ばーちゃん」すなわち遼一郎の母親特製の稲荷寿司などは大皿に盛られて中央に置かれている。

 カラトリーもスプーンやフォークではなく、塗り箸だ。ドイルの前にも箸しか置かれていない。

「お箸は使えるんですか?」

 配膳しながら、毛利が箸を指さして尋ねると、

「練習した」

 日本語で答えたドイルが、箸を手に持ち、動かしてみせた。不自然さはない。日本人でも、たまに箸の持ち方がおかしな者がいるが、ドイルのほうがずっと上手だろう。

「これはお見事。器用なんですな」

 毛利が大袈裟に感心している。「そういえば、聞きましたぞ。ニューヨークの警部さんだそうですな? 拳銃をお持ちなんですか?」

 ドイルは意味がわからなかったらしく、小首を傾げたが、毛利が右手で指鉄砲の形を作ってみせると、

「今はNoだ」と答えた。そのあとも英語で説明を続け、美雪が通訳するところによれば、

「ニューヨークには敵が多いが、日本には敵はいない。日本に滞在する以上は、日本の法律に従う」そうだ。

「なるほど。『郷に入っては郷に従え』ですか」

 毛利はもっともらしくうなずいている。「でも、お仕事で来日なさったんじゃないんですか?」

 その答えも「No」だった。

「休暇での旅行だ。警視庁に知人がいるから、連絡はしてあるが」

「……知人って、まさか、あの不ふ 埒らち 者もの    曽我部ですか?」

 毛利の問いを美雪が通訳すると、ドイルがまたしても笑い出した。そして答えは、

「違う。彼の上司の高野警部だ」

「……高野……警部ですか」

 毛利が絶句していたが、篤史も仰天していた。通訳する美雪も同様だろう。高野警部ならよく知っている。この屋敷にも何度も足を運んでいるし、とある事件の解決に遼一郎の助けを借りて以来、ファンになってしまったらしいのだ。

 ただし、篤史は密かに「大仏」と綽あだ 名な をつけている。奈良の大仏を彷彿とさせるパンチパーマに短足蟹がに 股また 、一昔前のヤクザのような外見で、義理人情や浪花節を愛するタイプなのだ。

 ニューヨークとは無縁のように思えるが   いや、警視庁殺人課の警部になれるくらいだから、それなりに優秀なのかもしれない。

「どんな縁で知り合ったの?」

 美雪が単刀直入に尋ねる。

「射撃大会で。オリンピックとまではいかないが、国際的な大会だ。各国の警察官が出場する」

「……高野警部って射撃の名手だったわけ?」

「警官としては、名手のうちに入る腕前だ。もっとも日本の警察官は、まず地面に向かって威嚇射撃してからでなければ被疑者に発砲できず、かすり傷を負わせた程度でもメディアから『過剰防衛だ』と袋だたきに遇うから、現場では一度も発砲せずに勇退してしまう者もいると言っていたが」

 そこまで英語で説明したドイルが、壁をにらみながら日本語でつぶやいた。「『取り出すな、指を入れるな、向けるな人に』」

「拳銃事故防止三大原則だな」

 黙って味噌汁を飲んでいた遼一郎が口を挟んだ。「昔から日本の警察に伝わる原則だ。拳銃を『取り出すな』引き金に『指を入れるな』銃口を『向けるな人に』」

「……それ、伝統的なジョーク?」

 美雪が笑っていいのかどうか戸惑っている。「拳銃をホルスターに入れっぱなしにして触らなければ事故防止になるってことだよね」

「俺も最初はジョークかと思ったよ」

 ドイルが苦笑した。「東京とニューヨークでは凶悪犯罪の発生率が一桁どころか二桁も違う。治安の良い都市ゆえのジョークなのかと。だが、彼は大真面目に『ジョークではなく、標語スローガン のようなものだ』と」

「標語か。規則だとは言わなかったんだな?」

「ああ。非現実的な標語だと笑っていたな。『ホルスターから取り出さなければ、銃の手入れもできないだろう』と」

「一理あるな」

 遼一郎も笑っている。「手入れ不足で暴発でもしたら、それこそ大事故を招く危険もある。事故防止の原則には不適格だ」

 こういった天の邪鬼な屁理屈は遼一郎の特技のようなものだが、あの高野警部も屁理屈を会得したのだろうか   美雪の通訳を聞きながら篤史は意外さに驚くばかりだ。

 一方、毛利は、

「拙者、高野警部を見直しましたぞ」

 匕首に手をかけながら、大真面目にうなずいている。「銃のような飛び道具は苦手ですが、刀も銃も手入れが肝要なのは同じですからな。なまくらな刃では実戦に役には立ちません。銃も同じでしょう。無能な警部だと見くびっておりましたが、能ある鷹は爪を隠すだったんでしょうか。しかも英語でお話なさったんで?」

 それを美雪が通訳すると、ドイルがうなずいた。

「もちろん英語での会話だ。発音や文法はともかく、意思疎通に支障はなかったが」

「やっぱり能ある鷹は爪を隠すだったんですな」

 毛利はしきりに感心しているが、美雪は意外に冷静な反応だった。

「でも、いちおう公務員だし、警部になるには筆記試験もできないと駄目だよね? ノンキャリア組で巡査部長から警部補になるには、四十倍の倍率を突破しなきゃならない。キャリア組なら半年の勤務と研修で自動的に警部補だけど、そのためには国家公務員試験にパスしなきゃならない」

「さすが美雪ぼっちゃま、お詳しいですな」

「そりゃ、これでも受験生だから」

 美雪が顔をしかめた。「学部や学科を選ぶのに、大学卒業後のことまで考慮したほうがいいのかと、ちょっと調べてる最中でさ」

「警察官になりたいんですか?」

「興味はあるかも。ただ憧れてるだけだけど。でも、弁護士になりたいのに理学部に進学する者はいないだろうし、たとえば篤史だって、美大に進学してデザイン事務所に就職したんだよね?」

「俺?」

 唐突に矛先を向けられたので、篤史は味噌汁にむせそうになった。「まあ、そうだね。絵を描くのが好きだったから。でも、大学と卒業後の進路は分けて考えてもいいんじゃないかな。遼一郎だって、医学部中退だしさ」

「作家は別だよ。学歴も作家になる前の職業も千差万別。森鴎外みたいに軍医と作家の二足の草鞋わらじ を履いてた人もいるし」

 割り切った口調で答えた美雪は、遼一郎を一瞥しただけで、毛利を振り向いた。「じゃあ、毛利さんは? どこの学校?」

「拙者は、商学部です。実家の跡継ぎとしての義務のようなものでしょうかね」

「演劇関係の学校じゃなかったのか」

「そっちもやってましたよ。アマチュアの劇団に入って」

「大学生の頃から二足の草鞋だったのか。呉服屋の跡取り息子としての学業と、役者と」

「まあ、そうですね。『二足の草鞋は履けない』と言いますが、大学の講義は単位ぎりぎりの出席でしたし、今となっては学費の無駄遣いだったかもと思いますけど、学生生活は楽しかったですよ。貴重な思い出です」

 毛利が懐かしそうに笑った。「そういえば、うちの商店街にあった老舗の魚屋の息子が、某有名大学の文学部に進んだんですが、二年目に中退して他の大学の理学部を受験し直しましたよ。気象関係の仕事をしたくなったので、勉強し直したいと両親の前で両手をついて頼み込んだんだそうです。今は地方の気象台に勤務してるとか」

「へえ……。大学二年生で、突然、気象学に目覚めたのか」

「みたいですね。大学受験のときには、まったく興味なかったそうです。美雪ぼっちゃまも、四年の間に人生の転機があるかもしれませんぞ」

「……かもね」

 美雪は曖昧にうなずき、またしてもドイルに向き直った。英語で尋ねたのは、後で通訳してくれたところによれば、やはり大学の専攻を訊いたらしい。

 ドイルの答えは、

「俺は経済だ。高校生の頃は警官になる気はなかった」

 だったそうだ。

「アメリカと日本では、警官の採用方法は違うんだよね?」

「違う。俺は高野から簡単に日本の警官の採用方法を聞いただけだが   キャリアやノンキャリアといった区分そのものが驚きだった。エリート大学を出て上級公務員の試験に合格した者が警察官になるのも信じられなかったな。とりあえず警察学校卒業時に十九歳以上であれば、学歴に関係なく応募できる。あとは性格的な適性と運動能力と、勤務に支障がない程度の刑法の知識を問う卒業試験にパスできれば、たいてい採用だ。ほぼ全員が、一番下の制服警官から始まる」

「『ほぼ』ってことは例外もあるわけ?」

「ある。たとえば元軍人だ。戦場での実戦経験と、警察学校でのたった六ヶ月の訓練は比較にならん」

「軍から警察に転職か……。そういや、日本みたいな終身雇用じゃないから転職者も多いって何かで読んだけど、警察官も?」

「もちろん。二十九歳までは応募できるから、変わった前歴を持った者もいる。俺が刑事だった頃の相棒は、やはり大学で経済を専攻して一般企業に勤めたのに、なぜか警官に転職した奴だった」

 そこまで答えたドイルの視線が、ふと遼一郎に向けられたように思えたのは、篤史の気のせいだろうか。しかも口元には笑みまで浮かんでいる。「運動が苦手で、性格も臆病」

「……刑事の頃の相棒ってことは、その人も刑事だよね?臆病で運動も苦手で刑事になれたわけ?」

「短所は時として長所にもなる。自分の臆病さを認められる男は滅多にいない。特に警官は」

「なるほど!」

 毛利がはたと手を打った。「『おのが分を知りて、及ばざる時は、速やかに止むを智といふべし』ですな」

「徒然草? ちょっとニュアンスが違うような気がするけど」

 美雪が上目遣いに天井をにらんでから、苦笑した。すぐに出典を思い出せるのは、さすが受験生と言うべきか。「でも、自分の弱さを認められるのは、潔いと言えるかも。その元相棒さんは、今は?」

「彼も警部に出世して、とある分署の刑事課課長になってる」

「刑事課の課長さんか……。人生って不思議だね。元は普通の会社員だったのに、今は刑事たちをまとめる役だなんて」

 感嘆したような溜息を吐いた美雪が、数秒後にもう一度、大きく息を吐いた。「やっぱり、大学進学と、なりたい職業は別に考えるべきなのかな……」

「まず、『何を学びたいか』が問題じゃないのか?」

「……それが……ないんだ」

「ない?」

「どの学科も好きだし得意だけど、『特別に学びたい』と思えるものがなくて」

「成績もオールAか」

「……幾つかBもある。美術とか音楽とか、芸術系はみんなB」

「では、なりたい職業は?」

「興味のある職業は多いけど、まだピンと来ないというか……」

 そこで美雪が、三度目の溜息を吐いた。「要するに、目標がないんだよ」

「オールマイティな優等生にありがちだな。だが、それも悪いことではない」

 ドイルの口調は淡々としていて、後に意味を教えられて初めて慰めていたらしいとわかったほど冷ややかだった。「ところで、明日の予定は?」

「……明日?」

「俺は午前中に高野と会う約束があるが、午後は空いている。東京の観光案内をしてもらえるか?」

「……僕が?」

「もちろん。気分転換になるかもしれん」

「……そうか。そうだね。ふだん見慣れた街も人に   それも文化の異なる海外の人を案内するとなると、説明も工夫が必要そうだし、新しい発見があるかもしれないね」

 美雪が嬉しそうに笑う。

 篤史は味噌汁を飲みつつ、こっそり遼一郎を見てみた。遼一郎は黙って、美雪持参の稲荷寿司に箸を伸ばしているところだった。





     4




 そんな奇妙な夕食の後、ドイルは遼一郎が電話で呼んだタクシーでホテルへ帰っていった。ちなみに、毛利も同乗することになった。雪は雨交じりの霙に変わったが、ラジオのニュースによれば、バスや電車の間引き運転が続いているらしい。

「東京駅も浅草橋駅も、同じ方向ですから」

 マントを羽織り、番傘を開きながら毛利が気軽に言った。ろくに英会話ができなくても物怖じする様子はない。「異人さんを怖がっていたら、商売はできませんよ。うちの呉服屋にも異人さんのお客さんがよくいらっしゃいますし、今や『キモノ』は世界で通用する言葉ですから。身振り手振りと片言の英語でなんとかなります」

 かえって和服や武士についての誤解を招くような気もするが、商魂逞しいと言うべきか。

(東京駅まで、一時間以上も、隣の席に座るわけだよな)

 雪で動かない電車の中で待ち続けるか、それともタクシーの後部座席でドイルと過ごすか。篤史としてはどちらも遠慮したいところだ。

 一方、ドイルは風変わりな同乗者に面白がっていたようで、「キモノ姿の日本人と日本語の練習ができるのは、貴重な経験だ」といった感想を洩らしてから、タクシーに乗り込んだ。

 タクシーが発進しはじめると、見送りについてきた美雪に、

「では、明日」

 と日本語で挨拶しながら手を振る。

「拙者も、明日は遅刻しないように参りますぞ」

 毛利も窓から顔をのぞかせて遼一郎に挨拶し、一面の銀世界に眼を向けると、なにやら歌い出した。「此の世の名残。夜も名残。死に行く身を譬たと ふれば、あだしが原の道の霜。一足づゝに消えて行く。夢の夢こそあはれなれ」

 日本の古典音楽らしき抑揚の調べを残し、奇妙な組み合わせの乗客を乗せたタクシーが門を出ていく。気の毒な運転手の心を案じつつ、

「……どこかで聞いたような」

 歌詞が記憶のどこかに引っかかり、篤史が首を傾げていると、

「近松門左衛門かな」

 さすが受験生、美雪はすぐにわかったようだ。「浄瑠璃   『曾根崎心中』だよ」

「有名な道行きのシーンだな」

 補足した遼一郎が、切れ長の眼を一面の銀世界に向けた。積もった雪にタクシーの轍がくっきりと残っている。しかし、水を含んだ霙が、少しずつ消していく。

「『一足づゝに消えて行く。夢の夢こそあはれなれ』か……」

 夢でも見るような眼でつぶやいた美雪が、ふいに笑い出した。「今頃、毛利さん、ドイルに説明を求められて困ってないかな。『心中』って英語で何て言うんだっけ?」

「double suicide」

「ダブル自殺? なんか……味も素っ気も無いというか、身も蓋もないというか……事務的だなあ」

「近松の心中物は『Love Suicide』と英訳されているが」

「愛の自殺か。それならまだ……」

「日本語に直訳するなら、『情死』と言え」

「……じょうし……情けじゃないな、愛情の死か。さすがに作家だな」

 妙な感心をした美雪が、大きくうなずいた「でも、『Love Suicide』って英訳した人も凄いかも。そうだよね、心中は日本特有のものじゃないよね。ロミオとジュリエットもそれに近いし」

「あれは厳密には、そそっかしい勘違いによる後追い自殺だが」

「……また身も蓋もないことを。せっかく古典的なロマンに思いを馳せていたのにさ」

 むくれ顔で遼一郎をにらんだ美雪が、ふと思い出したように尋ねた。「そういや、なんで『心中』って言うのかな?それに、なぜ『心しん 中ちゆう お察しします』の『心中』と同じ漢字なんだろう?」

「語源は同じ、人の真意や真心のことだ。それを相手に対しても守り通す意味になり、信義の誓いに転じた末に、究極の心の証あかし として命を捧げる意味になった」

「……究極の心の証か……」

 こぼれそうなほど大きな眼をさらに見開き、美雪は降りしきる霙を見上げている。吐く息の白さと、寒さで鼻が赤くなっているのも気づいていないようだ。

    夢の夢こそあはれなれ

 闇を舞う霙の向こうに広がる霊園に、雪化粧された墓石の群れが、仄かに白く浮かんでいる。その中に、肩を抱き合って進む和服姿の男女が幻となって見えるのだろうか。

 篤史も魅入られそうになるところだったが、生来の軟弱さが寒さに負けた。

「ほら、早く中に入ろうよ。受験生なのに風邪を引いたら困るだろ? それに明日はドイルの観光案内係も務めるんだし」

 凍えそうな手足を動かし、玄関へ走る。廊下を突っ切り、居間に走り込んで、だるまストーブに凍えた手をかざすと、やっと人心地がついた。過去二十二回も自殺未遂を起こしたが、「凍死」という方法を選んだことがないのは、寒さが苦手なせいだろうか。

 眠ったまま死ねるのだから、これ以上に楽な方法はないとは思う。だが、眠くなるまで寒さに耐えられるとも思えない。戸外で泥酔したまま凍死してしまった、とかいった例もあるが

「二十二回も失敗していながら、失敗した際のことを考えないのか」

 ふいに耳元で遼一郎の声が聞こえた。「凍傷は切り傷とは比較にならないほど深刻化しやすい。皮膚そのものだけでなく、神経組織も破壊する。壊え 疽そ を起こしたら切断するしかない」

「……そうか……」

 不気味な声に、篤史は背筋まで凍りそうな気分になった。心を見透かされているように思えるのはこれが初めてではないが、やはり心臓に悪い。「よくわかったね」

「当然だ。おまえが勘違いしているのもわかった」

「……勘違いって?」

「『曾根崎心中』の死に方は凍死ではない。凶器は短刀だ」

「……そうだったの?」

「雪も降ってはいない。『空も名残と見上ぐれば、雲心なき水の音。北斗は冴えて影映る。星の妹いも 背せ の天の川』   要するに夜空は快晴だ。さらに言えば近松がネタに使った元の心中事件も、起きたのは旧暦の六月、今の五月だ」

「……初夏? だって、『あだしが原の道の霜』って……」

「その前に『死に行く身を譬ふれば』とあるだろうに。儚いものの譬え、単なる比喩だ」

「……なんだ……」

 篤史はがっかりと肩を落とした。勘違いも甚だしい。「てっきり雪の中の逃避行かと……。でも、美雪や毛利さんも勘違いしてたわけ?」

「それは知らん。毛利は単に『二人連れ』『道行き』の連想で思い出したのかもしれんし、同じ近松の心中物で『冥途の飛脚』は雪の舞う中の道行きだから、混同したのかもしれん。美雪は作品を思い出したのではなく、ただ『心中』を連想しただけだろう。現役の受験生が勘違いするとは思えん。詳しくは本人に訊け」

「そういえば、美雪は?」

 あらためて居間を見回してみたが、美雪の姿はない。まだ外にいるのか。

「二階の自分の部屋だ。明日の東京案内でどこに行くか地図を見ながら考えるそうだ」

「……そうか」

 篤史はほっとしたような、淋しいような妙な気分だったが、

「というわけで、今夜は美雪に邪魔されずに済む」

 意味深長な言葉を残し、ストーブの火を消した遼一郎は足早に居間を出ていってしまった。「エコロジーのためにも、早寝することにしよう」

「あの……でも……」

 まだ仕事が   と口から出かけた言葉を、篤史は呑み込んだ。突然のドイル来訪への疑問も、喉から堰を切って飛び出しそうだったのだ。

 だが、ここで   この居間で尋ねてはいけない、と無意識の勘が忠告してもいた。美雪に聞かれる恐れがある。寝室ならば   遼一郎と二人きりならば、その心配も少ない。

 仕事も、下描きだけは終わっているから明日でも間に合うだろうと開き直ることにした。明日の午後は美雪が出かけるし、来客もなさそうだから集中できるはずだ、と前向きに考えることにする。

 下描きや道具類を片付け、居間を出て廊下を寝室へ向かう。洋館ゆえ、寝室にはバスルームがついている。廊下からも洗面所を兼ねたユーティリティー・ルームを通れば行ける構造だ。

 遼一郎は先にシャワーを浴びているらしく、寝室に入るとバスルームから水音が聞こえた。大きさだけが取り柄のキングサイズのベッドの横では、アンティークなロッキングチェアが揺れ、壁際には年代物のオーディオセットが設置されている。ラジオやカセットデッキもついてはいるが、CDプレーヤーはない。

 ラックには古いレコードがずらりと並んでいる。今時珍しいSP盤もあれば、LP盤やシングルレコードもある。ジャンルはクラシックにシャンソン、オペラ、ロック、カントリーと多岐に渡っているが、日本の音楽はない。英語かフランス語、イタリア語、ドイツ語   他にも篤史の知らない西洋の文字が並んでいるレコードばかりだ。

(まあ、遼一郎が演歌を聴くとは思えないけどさ……)

 想像して吹き出しそうになるほど、あり得ない組み合わせだとは思う。いや、そもそも遼一郎がレコードを買うところも想像できない。実際に買ってきたのを見たこともないし、ここにあるレコードは全て二十年以上前に発売されたものばかりだ。近辺に古レコード屋もない。

(これも伯父さんの遺産かも)

 この屋敷は、遼一郎の伯父、敬一郎が購入したものだと聞いた。その伯父が亡くなったとき、屋敷を含む全財産を遼一郎に残したのだ。

 遼一郎が医大の六年生の頃だったらしい。そして遼一郎は、大学を中退して渡米、ニューヨークへ

 なぜ遼一郎がニューヨークへ行ったのかも、連れて帰った赤ん坊、美雪の出生の秘密も、概要だけなら篤史は知っている。綱彦が曽我部物産のコネを使って興信所に調べさせたのだ。

 その調査記録を、篤史も見せてもらった。記されていたのは、言葉に尽くせないほど哀しい人生の綾だった。

 伯父である敬一郎には、高校時代からの親友がいた。ともに青春を謳歌し、切磋琢磨し、起業してからはライバルでもあった、和泉貴たか 久ひさ という男だ。

 しかし貴久の興した貿易会社は事業に失敗し、貴久は自殺した。遼一郎がニューヨークへ行ったのは、債務から逃れるために失踪した貴久の妻子を捜すためだった。おそらく敬一郎に遺言で頼まれたのだと思う。貴久が事業に失敗した原因を作ったのがライバル社の社長だった敬一郎だから、その贖罪のために。

 貴久の娘が、美雪の母「和泉雪乃」なのだ。

 しかし、雪乃の人生も終わった。お腹に宿した子供の父親は、たまたまニューヨークに駐在していた日本人会社員だったらしい。出産間近の臨月、その会社員の妻に刺されたのだ。医師たちは胎児を救うのが精一杯だった。その胎児が美雪

 雪乃、美雪   雪……。

(もしかして……)

 夢の夢こそあはれなれ

 夢を見るような眼で降りしきる霙を見ていた美雪を思い出す。

 もしかしたら、雪の中に、亡くなった母親の面影を求めていたのではないだろうか。写真の一枚もなくても、同じ「雪」の名前を持っている。しかも美雪が生まれたのは、クリスマスだ。ニューヨークは雪だったのではないだろうか。

 夢の夢

「何を見ている?」

 背後から遼一郎の声が聞こえ、篤史は心臓が止まりそうになった。

「あ、ええと、このレコードの中で、あんたの買ったのはどれかな……と」

 慌てて取り繕いながら振り向くと、バスローブを羽織った遼一郎が立っていた。バスルームのドアから湯煙が漂い、まるで霧の中に突然、出現したかにも見える。

「簡単に答えられないな。半分近くは私が買ったから」

「……半分も? でも、古いレコードばかりじゃん」

「当然だが、古レコード屋で。中野、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪   中央線沿線は古レコード屋も多い。学生時代によく梯子したな」

 タオルで髪を拭きながら、遼一郎が懐かしそうに笑った。阿佐ヶ谷には遼一郎の実家がある。あいにく篤史は、どの駅でも降りたことはないのだが

「そうか、それならいいんだ。全部、伯父さんのかと   」

 誤魔化そうとして勝手に口が動く。一瞬、まずいことを言ったような気がしたが、もう遅い。

「私は伯父の身代わりになる気はない」

 薄く笑った遼一郎が、篤史の腕を握った。左手首   それも包帯の上から強く握られ、篤史は思わず顔をしかめた。

「……痛いよ」

「この数ヶ月、自殺未遂は休止中だから傷は完治しているだろうに」

「傷がなくても、馬鹿力で握られれば痛いんだよ」

 言葉では抵抗しつつも、抱き寄せられ、口づけされると、なけなしの根性が吹き飛んだ。バスローブ越しの体温と、湯気の温もりに篤史の体も熱くなる。

 それに寝室には暖房器具がないから寒いのだ。暖まるにはベッドに入るしかない   と自分に言い聞かせつつ、遼一郎の手が服を脱がせるがままに任せる。

 ベッドに倒れ込むと、もはや無我夢中だった。

 自分から脚をからめ、催促する。しかし

「ドイルのことを訊きたくないのか」

 首筋にキスをしただけで、遼一郎が動きを止めた。

「……この変態サド! そりゃ訊きたいけど、後でも……」

 つい甘えるような声になってしまった。全身を包み込むような遼一郎の体温と、首筋に感じる熱い吐息で、篤史の脳味噌まで煮えそうだ。「それに、ドイルとあんたに体の関係がないのはわかるから」

「この種の勘だけはいいな」

 遼一郎が喉の奥で笑う声が聞こえた。

「……まあね。それにタイプが似てるように見えるし……」

「それは心外だな。私とドイルはまったく違う」

「じゃあ、変態サドじゃないわけだ」

「さあ? 私は彼のベッドでの趣味や傾向は知らん。今日が初対面だから」

「初対面って……。知り合いじゃないの?」

「知り合いだが、直に対面したのは今日が初めてだ。いわゆるペンフレンドのようなものだな」

「ペンフレンド……?」

「日本語に直訳すれば文通友達」

「ペンフレンドくらい理解できるよ。でも……」

 煮えたぎった脳味噌が焦げ付いているのだろうか。幼い頃、学習雑誌に載っていた「ペンフレンド募集」などというコーナーを思い出してしまった。「その、ペンフレンドになったきっかけは?」

「向こうから手紙をくれた」

「……ニューヨークから?」

「そうだ」

「でも、どうして?」

「用件もなしに手紙を書くやつがいるか?」

「そりゃそうだけど」

 話が擦れ違っている。やっぱり脳味噌が焦げ付いているに違いない。「だから、どうして遼一郎の名前や住所を知ったわけ?」

「調べたからだろう。国は違えど、彼も警察官だ」

「……そうか……」

 捜査のプロだし、キャリア組などの優遇もない実力主義のニューヨークで警部に昇進できるほど有能なのだから、そのくらい朝飯前なのかもしれない。綱彦が雇った興信所の調査員も、十七年前の事件を調査できたのだ。

 しかし   それでも篤史は釈然としなかった。ニューヨーク市警の警部も、十七年前の事件を調べたのだろうか。美雪の出生の秘密も知っているのか。「あの……」

「何だ」

「……さっき、ドイルが美雪に観光案内を頼んだとき、あんたは何も言わなかったよね」

「なぜ私が口を挟む必要がある?」

「……心配じゃないの?」

「なぜ心配するんだ?」

「だって、今日が初対面の相手だろ? ペンフレンドでも実際に会ってみたら印象が違ってた、なんてケースも聞くし、会ってまだ数時間なのに」

「数時間でも人柄を知るには充分だ」

「……信頼できるわけ?」

「全面的に信頼できるわけではないが、美雪に関しては信頼できる。しかも、ドイルを信頼して一任した男を、よく知っているからな」

「……ドイルを信頼して一任した男?」

 遼一郎にしては珍しく婉曲的な表現だと思いながら、おうむ返しに問い返してみる。焦げ付いた脳味噌のどこかに、氷の塊が一粒、投げ込まれたような冷たさを感じたのは、なぜだろう。触れ合った肌も、首筋にかかる吐息も、いっそう熱くなっているのに。

「先ほどドイルが自分で説明していただろうに。私と美雪が、おまえにわかるように日本語に訳したはずだが?」

「……もしかして、元相棒とかいう男?」

「やはり、この種の勘だけはいいな」

 ふたたび喉の奥で笑った遼一郎が、篤史の両脚を抱え上げると、一気に入り込んだ。

「……」

 不意打ちだった。いつもは、さんざん焦らすのに   篤史が根負けして哀願するまで焦らすのに   今晩は何かが違う。

 ドイルのせいか。いや、夕食の席でドイルが話した「元相棒」の男のせいか。

(運動が苦手で、性格も臆病)

(短所は時として長所にもなる。自分の臆病さを認められる男は滅多にいない。特に警官は)

(彼も警部に出世して、とある分署の刑事課課長になってる)

 ドイルの説明が幾つもの氷の粒となって、焦げ付きそうなほど熱い脳味噌の中をぐるぐると回っている。

(……そうだったのか……)

 ドイルの元相棒は、おそらくドイルの恋人でもあるのだろう。ドイルもゲイだ。

 そして、その恋人がドイルを信頼して一任した

 つまり、その恋人は美雪を知っている。

 そして、遼一郎もよく知っている。

 十七年前、遼一郎がニューヨークにいた頃の   恋人か……。

 なぜ、その恋人が自分で美雪に会いに来なかったのか。

 刑事課の課長ゆえの重責か捜査の関係で、来日の都合がつかなかったのか。

 だから、ドイルに頼んだのか

 幾つもの氷の粒に幾つもの疑問が重なって目眩がしそうだ。

 焦げ付きそうな脳味噌は、ますます熱く、まともに考えられない。

 遼一郎の動きの激しさに、絡み合った下肢も、焼け焦げそうな熱さだ。

「……痛……」

 ふいに激痛が走った。遼一郎の両手は篤史の両手首を握っている。握りつぶされそうなほどの強さだが、その痛みが、まるで遼一郎の心の痛みのように感じた。

 もう何も考えられない。

 いや   考える必要はないではないか。

 いつかまた遼一郎が説明してくれるだろう。今は、この痛みと熱さだけを感じていたい。

「……ったく、この変態サド!」

 篤史は、目を閉じて怒鳴った。

「お褒めいただいて、ありがとう」

 皮肉のような、揶揄するような遼一郎の声音もいつもどおりだが、息がわずかに荒い。

 篤史は遼一郎に全身を預けた。感じるままに喘ぎ、声を吐き出し、わめき続ける。

 声がいつしか嗄れ、吐息だけに変わったが、その熱さは甘くも感じられた。





   Epilogue





 翌朝は、快晴だった。

 昨夜からの霙は、夜半に雨へと変わったらしい。気温も朝から春めいた暖かさで、積もった雪はすっかり解けている。

 霊園前の小道も黒ずんだアスファルトが顔を出し、路線バスや車が通り過ぎるたび、水溜まりの泥を撥ね飛ばしている。

「良かったあ。これなら電車もバスも定刻通りの運行だね。暖かいから観光するのも楽だし」

 午前七時きっかりに起床した美雪が、テラス窓のカーテンを開け放ちながら、空よりも明るい歓声をあげた。

「……そうだね」

 一方、篤史はモップを杖のようにつきつつ、廊下の掃除に励んでいた。杖にする必要があるのは、要するに腰が痛いからだ。

(……あの変態サド……)

 胸のうちで悪態を吐くのも恒例のことだが、今朝はモップも本来の掃除具としての用途に用いられてはいる。

廊下に置かれた洗面器に、リズミカルな音を立てて落ちてくるのは、雪解け水だ。屋根に積もった雪が解けているのだが、解ける速度が遅かった昨日と違って洗面器が満杯になる速度も速い。

 油断していると、すぐに溢れて廊下を水浸しにするため、美雪がせっせと洗面器を持ち上げてバスルームへ運んだ後、篤史は濡れた廊下をモップで拭かなければならないのだ。

 バスルームまで何度往復したことか   十回を超えた時点で、篤史は数えるのを諦めた。屋根の雪が解け終われば、雨漏りも、この難行苦行も終わるはずだ。

 ちなみに遼一郎は、朝食もそこそこに書斎に籠もってしまった。執筆のネタでも浮かんだのだろうか。

「やっぱり、皇居外苑は外せないよね。帝国ホテルからも近いし」

 空っぽになった洗面器を手に、スキップするような足取りで戻ってきた美雪が、洗面器を廊下に置きながら言った。「それから東京タワーも。ニューヨークのエンパイア・ステートビルには昇ったことあるだろうけど、構造も違うし、展望台から見える風景も全然違うし   あ、そうだ!」

「……何?」

「英語の辞典を持っていかないと。細かいニュアンスも意外と重要だったりするしさ。日本特有の表現もあるしさ」

「……美雪の英語なら、そんなに問題ないと思うけど……。どこかで英会話を習ってたわけ?」

「幼稚園の頃からずっと。じーちゃんとばーちゃんが、『アメリカ国籍もあるし、英会話ができて損になることはない』って、家庭教師をつけてくれたんだ。中学生になってからは英会話の学校に通わせてくれて   でも、じーちゃん曰く、『おまえは日本人でもあるし、ここは日本なんだから、無闇矢鱈と英語を使うな』って。『美しい日本語の表現も、きちんと身につけるように』って。正論だよね」

「……まあ、そうだね」

 篤史はただうなずくしかなかった。美雪の祖父母   すなわち遼一郎の両親だ。篤史は遼一郎の母親にしか会ったことがないが、どうしてあんな天の邪鬼の変態サドが生まれたのか不思議になるほど、温厚そうな   ふわふわとした綿菓子のような柔らかな笑顔の持ち主だった。

 父親に関しては、遼一郎を勘当した経緯しか知らないから、頑固そうな老人を想像してしまうが、天真爛漫な美雪を見れば、孫を慈しんで育てたことだけはわかる。

 アメリカ国籍だから   と、幼稚園児に英語の家庭教師を雇ったのは、行方不明の母親「和泉雪乃」に、いつか美雪が「会いたい。捜しに行きたい」と言い出す未来を予見してのことだろうか。

「あの、篤史。実はさ   」

 美雪が近寄って声を潜めた。「実はさ、僕、留学もちょっと考えてて」

「……へえ……」

 絶句しつつも、篤史はうなずいた。考慮に入れて然るべきではないか。遼一郎も留学したのだし、美雪にとっては生まれ故郷でもあるのだ。「ニューヨークの大学に?」

「うん。もしも、留学するなら、の話だけど。だから、ドイルにそれとなく訊いてこようかなと思ってさ。向こうの大学の様子とか。留学生がどんな生活をしてるのか、とか」

「……そうだね。現地で実際に生活している人のほうがガイドブックより詳しいかも」

「うん。それに、父さんに訊くって手もあるけど、十七年前だろ? 十年一昔、って言うけど、二昔に近いもん。流行も違うだろうし、街並みも変わってるんじゃないかと思って」

「だろうね。東京だって街並みが変わってるから。都庁も新宿じゃなくて、丸の内にあったはずだし」

「だよね。父さんが住んでたアパートはまだ残ってるかな」

「……さあ、どうかな……」

 篤史の脳裏に、綱彦から見せられた興信所の調査記録が甦った。十七年前   遼一郎が住んでいたアパートは老朽化もあり、周辺の再開発に伴い解体され、建て替えられたのだ。もはや、存在しない。

「ま、それは行ってみればわかるよね」

 美雪はあっけらかんと笑い、「とにかく、ドイルを案内がてら、色々と情報を仕入れてこようと思ってさ。ついでに英会話の練習もして」

「頑張って。待ち合わせは帝国ホテルのロビーだっけ?」

「そう。十二時に待ち合わせて、お昼ご飯を一緒に食べてから出発。ここから東京駅まで、一時間はかかるから、十一時前には出ないと」

「……もっと余裕を見たほうがいいかも。駅までバスだし、中央線も雪とは関係なしに、よく遅れるし……」

 遅れる大半の原因は人身事故   つまりは飛び込み自殺で、中央線は多発地帯として有名なのだが、篤史は口には出さないことにした。言えば、篤史の自殺未遂を、美雪が厭でも思い出すだろう。「早めに着いても、東京駅周辺なら時間を潰す場所は沢山あるしさ」

「じゃあ、余裕を見て、十時半頃には出ようかな」

 美雪はただ嬉しそうに笑っている。無邪気で、天真爛漫ないつもの笑顔だが、そこには将来への希望や夢も秘められているように思えた。

 なぜか、篤史の胸が痛んだ。いや、痛みというより、一抹の淋しさだろうか。巣立つ準備をする雛鳥を見守るような

 と、そこへ

「はるがすみぃぃ~」

 と、まるで大相撲で力士の呼び出しをするような声が響いてきた。この脳天気な声は、もちろん毛利だ。「春霞たなびく山の桜花うつろはむとや色かはりゆく。詠み人知らず」

 広げた扇子をひらひらと翻してから、ぴたりと閉じた毛利が、慣れた裾捌きで廊下に正座し、一礼した。

「おはようございます。本日は、昨日遅参した挽回をすべく早めに参上つかまつりました」

「おはよう、毛利さん」

 美雪はまったく動ぜず、笑顔のままだ。「それより、春霞って、どこかに霞でも立ってたの?」

「そこの霊園ですよ。木立と墓石の間に、うっすらと   昨夜の雪が解けたせいでしょうかね。風情があるというか、風流というか。まだ桜のつぼみは固くて小さいですが」

「……そうか、春だよね……。ドイルもあと一、二週間遅く来れば、満開の桜を見られたのになあ」

 両手を突き上げ、大きく背伸びをした美雪が、夢見るような眼で笑った。





 同じ頃

 もとは布団部屋ゆえ窓のない書斎で、遠野遼一郎は、とある書籍のページをめくっていた。英語の書物だが、大半は写真やイラスト   それも小さな器に盛られた野菜のペーストや、ミルク粥といった離乳食ばかりだ。

 本のタイトルにも「baby food」の文字が入っている。ところどころ紙が黄ばんでいるのが、十数年の歳月を物語っているかのようだった。

 この本を買ったのは遼一郎だ。何度も読み返した。しかし、この本に書かれているレシピを試作したことは一度もない。

 試作する前に   赤ん坊だった美雪が離乳食を必要とする前に、ニューヨークを発たなければならなくなったからだ。そして、帰国したその夜には美雪を手放し、両親に預けた

 この本は慌ただしい出発で、ニューヨークのアパートに置き忘れてしまったものだ。それきり存在さえ忘れていたのだが   なぜか、今、遼一郎の手元にある。

「あの男   ドイルが『I love you』の通じる男か」

 遼一郎は低くつぶやきながら、本を閉じた。その薄い唇に浮かんでいたのは微笑だったかもしれない。「いい男を見つけたようだな」

                         (了)





あとがき





 本書は諸般の事情により、シリーズ未完のまま頓挫していた「厄介な連中」シリーズ(角川書店)の続編です。

 同時に遼一郎の若きニューヨーク時代の物語のスピンオフでもある「ホーリー・アップル」シリーズ(講談社)の未来編でもあります。

 出版社が別ではあっても、登場人物たちは、私の中では同じ世界、同じ時間軸の中に存在しています。ゆえに、この二つのシリーズがいつか合流することになるのは、構想段階からの予定ではありました。

 ただし、出版社が別であるがゆえに、商業出版の世界で発表するのは、とても難しいだろうということも予測していました。

 もともと私が同人誌を作ろうと決意したのは、この困難な状況を自力で打開するためだったのです。

 一昨年に発表した最初の同人誌、「ACORN vol.1」と「ACORN vol.2」は門外不出だった「DESPERADO」シリーズの第一話と第二話でしたが、これもやはり、一昨年の時点では商業出版の世界で発表するのが難しかった作品です。

 そして今回の「ACORN vol.3」で、やっと「厄介な連中」の続編を発表できることになりました。まだ助走段階ですが、過去が現在と合流し、止まっていた物語の時間が未来へと動き出しました。

 ちなみに、このシリーズの第一話「雨かもしれない」が「小説JUNE」に掲載されたのは、一九九四年   約二十年前です。

 当時はコードレス電話がやっと一般家庭に普及し始めた頃で、携帯電話もパソコンもインターネットも、ごく一部のマニアだけが使用する程度でした。

 本書の時代背景も、やはり一九九〇年代です。お買い上げくださった皆様の中には、もしかしたら「まだ生まれていなかった」かたも、いらっしゃるかもしれません。一方で、青春を謳歌なさっていらした方もいらっしゃるかもしれません。

 私にとっては小説を書く楽しさに夢中になりながら兼業OLをしていた懐かしい時代でもあります。ともあれ、数年ぶりの続編を、お楽しみいただければ、幸いです。



二〇一二年十二月        柏枝真郷





ACORN vol.3

 厄介な連中 15

 春霞たなびく墓地の

    メッセンジャー

  同人誌発行日  2012年12月30日

  Kindle版発行日 2018年1月12日

  著者   柏枝真郷

  発行者  ACORN

   http://www.kashiwae.com/

    kashiwae@plala.to

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